門派簡介編集後記

 初代末永節宗家が訪中したのが1904年~1912年の8年間であるが、この当時中国武術界に於いては少林洪家拳の「黄飛鴻(1847~1924)」 迷踪芸の「霍元甲(1869~1909)」八極拳の「李書文(1864~1934)」八卦掌の「宮宝田(1871~1943)」など現在各門派の中でも中興の祖と呼ばれる人々が 活躍していた。また当時中国は清朝末期から中華民国設立と言う維新の時代であった。日本でもが幕末から明治維新にかけて全国的には無名であった 人々が世に出て翔いた時代であったのと同じように中国に於いても同じような時代であったに違いない。
 このような時代に武田流の合気術、神道夢想流杖術を修められていた初代宗家末永節が生まれ育ちまた中国に渡られたことは何かの縁(えにし)にほかならない。
 また、二代宗家森實芳啓(玉照)が初代宗家末永節の弟子となられ少林拳法、二代宗家になるまでに幾つかの武道武術、格闘技を学んだ経緯のため諸流派より誹謗中傷を受け辛酸を舐めながら初代の教えを守り真の実戦中国武術を日本の地に広め根づかされたことは、我々師範をはじめ多くの全日本少林拳武徳会拳士にとって感謝の一言では尽きね思いである。

 

 黄飛鴻 (こう ひこう、広東語: ウォン・フェイホン、中国語: ホワン・フェイホン、1847年-1924年)は、中国の武術家、医師。元の名は黄錫祥、字は達雲、幼名を黄飛熊と名乗る。原籍は広東省南海県(現仏山市)西樵嶺西禄舟村、嶺南武術宗師であり名医。
 中国最後の王朝、清朝末期の時代に活躍した武術家で、中国近代史上では最大の英雄とされる。父であり「広東十傑」の一人に称された武術家・黄麒英(ウォン・ケイイン)の息子で、父より、南派少林拳の一派である「洪家拳(こうかけん)」を叩き込まれ、父と共に修行の流転旅を続ける少年期を送るが、その技は13歳の時点では既に道場主に匹敵するほどの完成度であり、「少年英雄」と称される。
 成長した飛鴻は父と共に各地で武者修行を続けるが、1863年、父の死に伴い、父が経営していた漢方薬局兼拳法道場である寶芝林の跡目を継ぎ、欧米列強の進出に伴い荒れる時代を予測して、農民たちに武道を教えて自警団を率い、民間レベルで治安の混乱を防いだ。やがて官軍や警察などにも同様に洪家拳を教授し、動乱時代の国の治安維持に尽くした人物として現在も評価が高い。
 彼の伝えた武技は虎拳(伏虎拳、工字伏虎拳)、鉄線拳、梅花拳、梅花十字拳、夜虎出林 二龍争珠、三箭拳、五郎八卦棍 子母刀、飛鉈など、多岐にわたり 高級技法として、五形拳(龍形・蛇形・虎形・豹形・鶴形と金行・木行・水行・火行・土行の 陰陽五行を相克させた拳法) と十形拳(龍・蛇・虎・豹・鶴・獅・象・馬・猴・彪)を学ぶ。 黄飛鴻は中でも「虎形拳」を大変得意とし武術仲間から「虎痴」と仇名されるほど多用したと言われる また父、黄麒英伝の五郎八卦棍や、少林五虎の一人鉄橋三(本名、梁坤)の弟子「林福成」から学んだ 鉄線拳を練習すると、屋根瓦が震えるほどの、剛強な呼吸法だったと言われる
 さらに獅子舞の名手としても知られ、その技術の高さから「獅子王」という称号も持つ。
1925年没。仏山市の中心地区にある祖廟の隣りに、「佛山黄飛鴻紀念館」が作られ、家族の紹介、関連映画や武侠小説に関する展示などが行われている。(Wikipediaより引用)

 霍元甲(かく げんこう、フォ・ユァンジャ、1857年-1909年)は、秘宗拳の武術家。
清末、中国静海(天津)の出身。字は俊卿。
 武術家の家系に生まれる。霍家七世。幼き頃は病弱のため非力で、拳名を汚すと父は武術を教えなかった。  そのため父兄の武術練習を見学し、独学で功夫を身につけ、認められて父より家伝の秘宗拳(別名は燕青拳・迷踪藝など。)を伝授される。
 その後、日本人武術家との対戦で有名になった。ジェット・リーが主演し彼の生涯を描いたとされる映画「SPIRIT」では、この武術家を中村獅童_(2代目)が演じていることで話題になった。1909年には、上海精武体操学校(上海精武体育会の前身)を創設する。
霍元甲については、日本人武術家との試合に勝ったことで怨みを持たれ、毒殺されたとの逸話が広く知られているが、これは全くの俗説である。霍の親族や現存する弟子たちの証言によると、この試合はあくまでも友好的なもので過激な内容ではなく、霍は持病の肝硬変により死亡したと証言されている。当時の霍は生来肝臓を病んでいたことが知られており、「黄面虎」と呼び名されていた。(Wikipediaより引用)

 李書文(り しょぶん、Li Shuwen)、字は同臣。1864年-1934年)は中国武術家。
出身は張沙で張景星、金殿臣より八極拳を、黄四海より劈掛掌(劈掛拳)を学び達人と称される。真剣勝負に於いては、 幾度も決闘をするも負け知らずであったといわれる。槍を得意としたことから神槍、瘋子李とも恨子李とも仇名される、また殆どの対戦相手を一撃で倒したことから二の打ち要らずと謳われ、三歳児でもそのなを知られていたと言われる。晩年は凶拳李と恐れられた(滄州武術協会副主席李書亭談)。
 八極拳の歴史において、李書文は八極拳をそれまでのものとは比べ物にならないほど凶悪な殺人技法に作り変えたとされ、他の八極拳の門派(流派)と李書文の門派とを差別化するために李書文八極拳または李氏八極拳という呼び方をすることがある。(Wikipediaより引用)